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和尚講和

インナー・ジャーニーより

マインドに直接、面と向かう第1点目は、自分自身を知る恐れを捨てきることだ。自分自身を知る恐れとは何だろう?それは、もしかすると自分は悪人なのではないか、という恐れだ。善人であるというイメージを高めてきたのちに、悪人である事が発覚するかもしれないという恐れだ。あなたは一見、善人に見えるーーー徳もあり、純心で、真正で、正直だ。あなたの恐れとは、内側の自分は真正でなく、偽物であることに気づいてしまうかもしれないという恐れだ。あなたは、自分が非宗教的で、複雑で、狡猾で、偽善的で、背徳的だと知ることを恐れている。それは、自分のイメージーーーつまり自分だと思っているものが、偽りだと判明するかもしれない恐れだ。

このように恐れる人は、決してマインドに直面できない。
~略~

さて、第1点は恐れを捨て、勇敢に自分自身を見る覚悟をすることだ。この勇気を持たぬ者は、厄介なことになるだろう。あなたは魂に到達すること、存在を知ることに興味を持ってるが、自分自身に直接ありのまま直面する勇気を持ち合わせていない。魂と存在ははるかかなたにある。最初の現実は、あなたのマインドだ。最初の現実は、あなたがもっとも密接に関わっている思考のセンターだ。まず、それを見て、それを知り、それを認識することだ。

クンダリーニ 生命力の目覚めより~

理論的な知識が役に立ったことはないし、クンダリーニをどんなに解剖学的に視覚化してみたところで、実際のところ瞑想にとっては全然意味のないことだ。とはいっても、クンダリーニやチャクラのようなものは存在しない、ということではない。
クンダリーニは在る。チャクラも在る。ただし知識はいささかも役に立たない。むしろ知識はじゃまになることがある。それは多くの理由から障害物(バリヤー)になりうる。

その理由のひとつはこうだ。つまり、クンダリーニや生命エネルギーの神秘的な道ーー生命の飛躍の内なる道ーーについての知識はいずれも一般化されたものだ。だが、そういうものには個人差があり、その根元はかならずしも同じではない。Aさんにとってはそれは異なり、Bさんでも異なり、Cさんでもまた違ってくるだろう。内なる生命んは個性がある。だから、あなたが理論上の知識を通して何かを身につけようとしてもそれは役に立たない。じゃまになるかもしれないくらだい。なぜなら、知識はあなた自身に関するものではないからーー。それはあなたに関するものではありえない。自分自身について知るのは、あなたが内部に入って行ったときだけだ。

チャクラは存在する。がその数は個人によってそれぞれ違う。あるつひとにはチャクラが7つあるかもしれない。あるひとには9つあるかもしれない。またある人にはもっとたくさんあるかもしれないし、別の人はもっと少ないかもしれない。あれだけ異なった伝統が発達してきた理由だ。

和尚の講和

自分を変えることが世界を変える
◆質問

Osho、何もかも申し分ないのですが、第3次世界大戦が近づきつつあります。あなたは「世界を変えようとしてはいけない」とおっしゃっています。けれどもコミューンの門のすぐ外では、乞食の子が今にも飢えで死にそうになっています。どうしたらいいのでしょうか?

 

私の提案はこうだ。あなたが第三次世界大戦を防止できると考えてはいけない、あなたが貧困を変えられると考えてはいけないということだ。あなたが変えられるのは、あなた自身だけだ。あなたの貪欲を捨てなさい、あなたの未来を捨てなさい、あなたのマインドを捨てなさい。

もっと愛に満ち、もっと健康になって、そしてハートから生きなさい。そしてもしたくさんの人びとがそのように生き始めたら、それこそが世界を変える唯一の方法だ。世界を直接変えることはできない。なぜなら世界は魂を持っていないからだ。魂は個人のなかに存在する。個人だけが変わることができる。

あなたがたが溜め込み屋のままで――貪欲で、暴力に満ちて、抑圧されて――いるなら、この社会が続くだろう。そしてあなたは乞食に金をやることはできるだろうが、彼は乞食のままだろう。なぜなら金は決してなにも変えはしないからだ。私は百万長者でいてしかも乞食のような人たちを知っている。彼らは、いくら持っていようがなにも違わない守銭奴だ。

こんな話を聞いたことがある……。ふたりのユダヤ人亡命者がジョン・D・ロックフェラーの家を通り過ぎたことがある。「わしにあの男の百万ドルがあったらなあ」とその内のひとりがため息をついた。

「わしは奴よりもっと金持ちになれるのに」
「そんなの無意味だね」ともうひとりが注意した。
「お前にロックフェラー氏の百万ドルがあったら、お前は彼と同じだけの金持ちで、彼以上の金持ちなわけじゃないさ」
「お前は間違ってる」と最初の男が主張した。「わしがヘブライ語のレッスンの方もできることを忘れんでくれよ」

乞食はやはり乞食だ。ジョン・D・ロックフェラーの全財産を持ってまでも、彼はもう一方でヘブライ語のレッスンをするつもりでいる。

人は変わらない。金では決してなにも変わらない。もし自分が変われば、それはまったく別なことだ。私は慈愛の心を持ってはいけないと言っているのではない。私が言っているのは慈愛の心を持つのはいいが、ただあなたの慈悲で世界が変わると思ってはいけないということだ。そんなことを望んではいけない。

なんであれ与えられるものを与えたらいい、分かち合えるものを分かち合いなさい。ただ愛の心からのみ分かち合いなさい。政治的観点で、世界を変えるなどと考えてはいけない。さもないと失望することになる。そういうことは忘れてしまいなさい。

あなたはなんでも自分がしたいと思うことをしたらいい。乞食に会ってなにか感じたのならそれをしたらいい。自分がしたいと感じることをなんでもしなさい。私は、なにもするなと言ってはいない。ただ私が言っているのは、自分が世界を変えているなどと思ってはいけないということだ。なにひとつ変わるものはない。

世界を変える唯一の方法は意識のレベルを変えることだ――そしてあなたは、それをあなた自身のなかでしかできない。ほかの誰にも、それを外側からすることはできない。確かに、あなたが自分の意識の水準を変えたら、あなたは人びとを変えるような、彼らが知らずに変わってしまうような波動を生み出す。

世界にはある別の雰囲気が必要なのだ――別の社会ではなく、別の空気だ。別の霊的な波動が必要なのだ。私が直接することに関心がないのはそのためだ。私はあなたを社会の僕(しもべ)に、宣教師に、なにかそういうものにしたくはない。私はあなたが完全に利己的であることを望む。

まず自分が誰かを知ろうとしなさい。これこそが利己的であることの第一原理だ。まず愛そうとしなさい。これが利己的であることの第二原理だ。他人を愛せるようになるほどに自分自身を愛しなさい。そして利己的であることの第三原理はこうだ。

その瞬間を喜びに満ちて、祝いながら生きなさい――そうすればあなたを通じてなにかが起こり始める。あなたは引き金のポイントになる。世界的プロセスが始まる。
いつであれひとりの覚者が生まれるとき、世界的プロセスが始まる。あなたは覚者になりなさい、目覚めるのだ。それがあなたにできるすべてだ。

The path of love


和尚の講和

<OSHOの講話より  本当の思いやりとは?>

他人を思いやる時、最も基本的で必要とされることは自分自身を思いやることだ。私は自己奉仕を教える。そうすればその結果として、全面的に違ったヴィジョンが姿を現わす。

自分に奉仕し、自分を楽しみ、自分を愛し、自分に敬意を払う人は、必ずや他人にも敬意を払う。なぜならそのような人はだんだんと、他人の中にも自分と同じ生命が宿っていることに気づくからだ。自分を愛すれば愛するほどに、あなたは他と分離してはいないことに気づく。

融合が体感出来るのは、愛をおいて他にはない。自分自身を愛すれば愛するほどに、あなたはあらゆる定義が誤りであり、あらゆる境界が恣意的であることを知るようになる。自己の実存と交わり溶け合うほどに、自己の内面世界に酔いしれるほどに。自分が他と分離した存在ではなく、宇宙はひとつであることを知るようになる。

だから私達はそれを宇宙(universe)と呼ぶ。uniとは、ひとつという意味だ。Multiuniverse(複数の宇宙)とは呼ばない。それはひとつだ。ひとつの全体性だ。私達は互いに部分を担っている。孤立した人間は1人としていない。目には見えないが無限のひとつの大陸に、私達は属している。無限性が私達の存在だ。

しかしその体験が起こるのは、自己を実現し始めた者達だけだ。自分を愛するあまりただ1人、目を閉じるだけで至福の絶頂を感じることが出来る者達だけに。それが瞑想の何たるかだ。

瞑想とは、独りであることに無上の幸福を感じることだ。だが独りであることに無上の幸福を感じると、人はやがてその恍惚感があまりに大きくて、独りでは支え切れなくなる。それはあなたから溢れ始める。そしてそれが溢れ始める時、愛に姿を変える。

瞑想は、愛が起こることを可能にする。瞑想を知らない人々は決して愛を知ることはない。知っている振りをするかも知れないが、それは不可能だ。そういう人々は知っている振りをしているに過ぎない。なぜなら、彼らには何一つ与えるものがないからだ。溢れ出すものがないからだ。愛とは分かち合いだ。だが分かち合う前に、まずそれを手にしていなくてはならない!

まず初めに、瞑想ありきだ。瞑想こそが中心であり、愛はその周辺だ。瞑想こそが炎であり、愛はその放射熱だ。瞑想こそが花であり、愛はその芳香だ。私は瞑想を教える。なぜなら、あなたの実存に愛が起こることを可能にするのは瞑想だけだからだ。溢れ出すものがある時、あたかも瞑想から起こる影のごとく、あなたは他者と関係を持ち始め、他者を思いやり始め、生の中に奉仕というものが湧き上がる。

それは強要されるべきものではない。それは義務であってはならない。「義務」とは卑劣な言葉だ。何かを義務として行う時、それは強要され、作為的で、本物ではない。それは偽りだから、あなたを偽善者に仕立て上げる。

自分ひとりでは支え切れずにあなたが溢れ出す時、全く異なった質があなたの実存から姿を現わす。あなたは愛さずにはいられず、分かち合わずにはいられない。そして分かち合いの素晴らしさは、与えれば与えるほどに自分も得るということだ。愛の中に自分を空っぽにするほど、人は満たされていると感じる。

OSHO:Come,Come,Yet Again Come より

他者への思いやりは、どこで干渉に変わってしまうのだろう?イデオロギーが入り込んだ瞬間に思いやりは干渉へと変わり、愛は苦く、憎悪と言えるほどまでに姿を変える。そして保護は牢獄へ姿を変える。イデオロギーが違いをもたらすのだ。

たとえば、あなたが母親なら子供の世話をするだろう。子供にはあなたが必要だ。あなたがいなければ子供は生きていくことが出来ない。あなたは絶対に必要不可欠だ。子供には食べ物が必要であり、愛や世話が必要だ。だがあなたのイデオロギーは必要ない。あなたの理想は必要ない。あなたの聖典は必要ない。信仰も必要ない。子供がどうあるべきかなどというあなたの理想も必要ない。

イデオロギーや理想、ゴールや目的さえ持ち込まなければ、思いやりは美しいし思いやりに罪はない。でなければ思いやりというのはずる賢いものだ。思いやりの中にイデオロギーを持ち込まなければ・・・子供に対してキリスト教徒になりなさいと望まず、これになりなさい、あれになりなさい・・・共産主義者、独裁主義者にしようとせず・・・。またビジネスマンになりなさいだとか、医者になりなさいだとか、エンジニアになりなさいだとか望まず・・・自分の子供にいかなる理想も抱かないことだ。

子供に言いなさい。「お前のことを愛しているよ。だから大人になったら自分で選びなさい。何でもありのままの自分でいられるものになりなさい。祝福するよ。お前がどうあろうとも私はそれを祝福する。お前が何になろうとも、私はそれを受け入れ歓迎する。大統領になった時だけお前を愛し、ただの大工になったら忌み嫌い恥ずかしい思いをするなどということはない。大学で主席になった時だけ歓迎し、落第したらお前を恥だと思うこともない。お前がいい事や正しい事や、道徳にならったあれこれをした時だけ私の子供で、そうでない時は親でも子でもない、などということもない」

いかなる意見であれあなたが持ち込んだ瞬間に、あなたは関係性を毒する。思いやりは美しい。だが思いやりが何かしら見解を持つ時、それはずる賢さとなり、ひとつの取り引きとなり、前提条件を持つようになる。実際、私達の愛は全てずる賢い。それゆえ世界はこんなにも不幸であり、まさに地獄という有様だ。

思いやりがない、というのではない。思いやりはある。だがあまりにもずる賢さがつきまとっているのだ。母は思いやり、父も思いやり、夫も思いやり、妻も思いやり、兄弟も姉妹も、誰もが思いやっている。私は誰も思いやりがないとは言わない。人々は充分過ぎるほど思いやっている。だが、それでもこの世は地獄なのだ。

一体、何がおかしいのだろう?思いやりには条件が付きものだ。「これをしなさい!あれになりなさい!」といった具合に。いかなる条件もなしに誰かを愛したことがあるだろうか?男であれ女であれ、その人をあるがままに愛したことがあるだろうか?どんな改善も望まず、変化も要求せず、全面的に、完全に受け入れてごらん。そうすれば、思いやりの意味が分かるだろう。

あなたは思いやりを通して満たされるだろうし、相手はとても大きな助けを得るだろう。愛は無償の贈り物でなくてはならない。そこに値札が貼り付いた瞬間、それはもう愛ではない。

OSHO:The Diamond Sutra より

あなた方は、新しい価値観を学ばなくてはならない。新たな魂を吹き込むことによってしか、人類を苦しみから救うことは出来ない。あなた方は価値のない価値観を教えられて来た。あなた方は基本的には、有害な事ばかり教えられて来た。

たとえば、あなたは自分を愛さないようにと教えられて来た。しかも数えきれないほど繰り返し聞かされて来た。それゆえに、それは一見単純な事実で真実のように思える。しかし自分自身を愛せない人は、他人を愛することなど出来はしない。自分を愛せない人は、愛すること自体が無理なのだ。

あなた方は「利他的(altruistic)でありなさい、決して利己的になってはいけない」と言われ続けて来た。そして、それはとてもよいことのように思える。だが、それはただ思えるというだけに過ぎない。それはあなたの本質そのものを破壊してしまう。真に利己的な人だけが、利他的になることが出来る。

なぜなら自己に根付いてもおらず、利己的でもない人が、他人の事を気にかけるはずなどないからだ。自分自身の面倒を見ることが出来ない者が、どうして他人の面倒を見ることなど出来よう。そういう人は自虐的であり、当然の結果として他虐的になる。

あなた方は、新しい価値観を学ばなくてはならない。新たな魂を吹き込むことによってしか、人類を苦しみから救うことは出来ない。

OSHO:The Book of Wisdom より

和尚の講和



セラピーグループの目的

質問:セラピーグループの目的は、参加者を自然な自己へと連れてゆくことでしょうか?もしそうだとしたら、自然であろうとする努力は不自然ではありませんか?もしそうでないとしたら、自然と不自然の本質的な違いは何ですか?

セラピーグループの目的は、参加者を自然な自己に連れてゆくことではない・・・。まったく違う。セラピーグループの目的は、自分の不自然さを見ることができる地点まであなたを連れてゆくことだ。あなたを自然な自己へ連れてゆける人は誰もいない。あなたを自然な自己へ連れてゆける技法やテクニックや仕掛けは何ひとつない。なぜなら、あなたのやることすべてが、あなたをもっともっと不自然にしてしまうからだ。

では、セラピーグループの目的は何か?それはたんに、あなたが自分の実存のなかにくり広げてきた不自然な様式を、あなたに気づかせるだけのものだ。それはたんに、あなたが自分の生の不自然さを見る手助けをするにすぎない。それだけのことだ。それを見ることで、それは消えはじめる。それを見ることが、それを解消させることだ。というのも、ひとたび自らの実存のなかにある何かが不自然であることを見抜いたら、あなたはもうそれに固執できないからだ。

そして、何かが不自然だと理解することによって、あなたはほんとうに自然なものを感じ取ってもいる・・・。が、それは遠回しだ、曖昧だ、それははっきりしていない。はっきりしているのはこれ、つまりあなたは自分の内側で何かが不自然だということを見たということだ。不自然なものを見ると、もはやあなたはそれを支持することはできない。それはあなたの支持ゆえに存在していた・・・。あなたの支持なくしては、何も存在できない。あなたの協力が必要だ。

あなたが協力すれば、何かが存在する。不自然なものは、たしかにあなたの協力なしでは存在できない。それがどこからエネルギーを得るというのだね?自然なものはあなたの協力がなくても存在できるが、不自然なものは存在できない。不自然なものには不断の支えが必要だ。それは絶え間ない世話を必要とする。それは絶え間ない管理を必要とする。一度これは不自然だと見抜いてしまったら、それを握りしめていたあなたの手はゆるむ。あなたの拳(こぶし)はひとりでに開く。

グループはあなたの拳を開くための仕掛けではない。それはたんに、自分がやっていることが不自然であることを見るための手助けにすぎない。見ること自体のなかに、変容がある。
あなたは尋ねている。

「セラピーグループの目的は、参加者を自然な自己へと連れてゆくことでしょうか?」

いや、それが目的ではない。目的はたんに、あなたがどこにいるかを、あなたが自分自身に対して何をやってきたかを・・・、どんな害を絶えず及ぼしてきたか、そしていまだに及ぼしつづけているかを、あなたに気づかせることにある。自分の存在にあなたがどんな傷をつけているかを。

傷のひとつひとつにあなたの署名が入っている・・・。自分の署名にあなたを注意深くさせること、それがグループの目的だ。それにはあなたの署名がほどこされている、他の誰がそうしたのでもない。あなたの周囲にある枷(かせ)はすべてあなたの手で創られた。あなたの住む監獄はあなた自身の作品だ。誰もあなたにそれをしてはいない。

「私が自分の監獄を創りあげているのだ」と気づいたら、あなたはいつまでそれを創りつづけることができるかね?あなたが監獄に住みたいというのであれば、話は別だ・・・。が、誰ひとり、監獄には住みたくない。人々がそこに住んでいるのは、「他人が監獄を創りだしているのだから、仕方がない」と考えるからだ。彼らはつねに責任を他人に転嫁してばかりいる。いつの時代にも、彼らは新しい別の方策を見出してきた。が、その目的は、他人に責任を転嫁することは、変わっていない。

人間がどんな口実を見出そうとしてきたことか、あなたは驚くだろう。古代には、人はこう考えたものだ。「神が私たちをこのように創られたのだ。だから責任は神にある・・・。私たちに何ができる?私たちはただの被造物にすぎない。私たちは神が創造されたとおりの姿だ。私たちはこの惨めさを生きねばならない。これは運命なのだ」

それはトリックだ。あなたはすべての責任から自分を解放しようとしている。が、あるトリックが長いあいだ働くと、それは使い古された手法になる。それにはもう効き目がない、人々はそれに飽きてしまう。彼らは新しい概念を探しはじめる。しかし、その目的は変わらない。

マルクスは言う。それは社会だ、社会の経済機構だ・・・搾取、搾取者たち、帝国主義者たち、資本主義者たち、彼らが害をなしている、彼らが原因だ、と。ふたたびあなたは責任から解放される。だとしたら、どうしようもない。あなたには奴隷状態が課せられている。あなたは惨めにさせられてきた。革命が起こらないかぎり、何も起こらない。だからあなたは延期することができる。

だが、革命はけっしてやって来ない。それはまだ起こっていない。ロシアにも、中国にも・・・、どこにもだ。革命はけっしてやって来ない。それはたんなる延期だ。人間はロシアでも、他のどの場所にも劣らず惨めだ。他のどの場所にも劣らず精神的苦境のなかにある。嫉妬はロシアにも他の場所と同じくらいある。怒りも同じくらいに、暴力も同じくらいに・・・。何ひとつ変わっていない。

フロイトは、それは養育のせいだと言う。幼児期にあなたは間違った育てられ方をした・・・。どうしようもない。それはすでに起こってしまった。今となってはやり直す道はない。せいぜいそれを受け容れ、それを生きることしかできない。あるいは不必要に闘いつづけることもできる・・・。が、希望はない。

フロイトは最大の悲観論者のひとりだ。彼は人間に希望はないと言う。なぜなら、幼児期にパターンが定着してしまうからだ・・・、永久に定着する。その後、あなたはそのパターンをくり返しつづける。ふたたび責任は転嫁される。そうなったら、責任はあなたの母親にある。そして母親は「私だってどうにもならないのよ」と考える・・・。責任は彼女自身の母親にある・・・、そしてこれがどこまでも続く。

これらはすべて策略だ。が、目的は同じだ・・・。同じ目的のための異なる策略。目的は何か?それはあなたの肩から責任を取り去ることだ。

グループセラピーは、神に責任があるのでも、社会に責任があるのでも、両親に責任があるのでもないことをあなたに気づかせる。もし、誰かそれに対して責任を負う者があるとしたら、それは「あなた」だ。グループのプロセスはこの単純な事実を・・・、責任を負うのは「あなた」であることを叩き込むことだ。

そして、この叩き込み(ハンマリング)には大いなる意義がある。なぜなら、ひとたびあなたが、「まさに自分だ、自分が自分を損なっているのだ」と理解したら、そのときには扉が開くからだ。そうなったら希望がある。そのときにはたしかに何かが可能だ。

革命は責任を、個的な責任を経てこそ可能だ。あなたは変換しうる。あなたはこれらの古いパターンを落とすことができる。それらはあなたの宿命ではない。が、もしそれらを自分の宿命だと認めてしまったら、それらは実際にあなたの宿命になる。それはひとえに、それらに力を貸すか否かの問題だ。

そしていいかね、私は両親があなたに何もしなかったと言っているのではない。私は、社会があなたに何もしなかったと言っているのではない・・・私はそうとも言ってはいない。社会は多くのことをした。両親は多くのことをした。教育者や僧侶たち、彼らは多くのことをした。だが、依然として究極の鍵はあなたの手のなかにある。

あなたはそれを現に落とすことができる。あなたはいっさいの条件づけを落とすことができる。彼らが何をやったとしても、あなたはそれを消すことができる。なぜなら内奥の中核において、あなたの意識はつねに自由なままだからだ。責任はあなたにあるというこの真理をはっきり自覚させること、それがセラピーグループの目的だ。

(つづく)



セラピーグループの目的

<OSHOの講話より>  (つづき)

「責任」というのは、グループセラピーの過程(プロセス)においてこの上もなく大切な言葉だ。それは痛むがゆえに、誰も責任を取りたがらない。「私の惨めさの原因は私だ」と、その要点を見抜くだけでもとても痛む。誰か他人が原因であれば、人はそれを受け容れることができる。仕方のないことだ。が、もし私の惨めさの原因が「私」だとしたら、それは痛む。それはエゴに背く、それはプライドに背く。

グループセラピーが困難なプロセスであり、つらいのはそのためだ。あなたは逃れたい・・・。「エンカウンター」から、「タオ」から、「原初療法」から逃げだしたい。なぜあなたは逃げだしたいのだろう?それは、あなたがつねに自分は完璧に正しい、自分は完璧に善い・・・、私に害を与えてきたのは他者だと信じてきたからだ。

今やことの全体を変えなければならない。あなたはあらゆるものを逆さにしなければならない。誰もあなたに害を及ぼしてはいない。それに、たとえ彼らが何か害を及ぼしているとしても、それはあなたの協力を通してのことだ。だから、最終的には、責任は「あなた」にある。あなたがそれを選んだのだ。

あなたは言う。「夫が私につらくあたるのです」・・・。が、この夫を選んだのはあなただ。実際、そうであるからこそ、彼はあなたに害を及ぼすことができるのだ。あなたは傷つけられたかった。あなたがこの夫、この妻を選んだのはそのためだ。

ちょっと、妻を次から次へと取り替える人たちを観察してごらん。あなたは驚くだろう・・・。何回も何回も彼らは同じタイプの女性を見つけだす。同じタイプの女性を見つけだすのはむずかしい。が、彼らは見つけだす。そして6ヶ月も経たないうちに、彼らはまた愚痴をこぼす。そして、その愚痴はまったく同じだ。

私は8回結婚して、そのたびにどのようにか同じタイプの女性を見つけだした、ある男のことを聞いたことがある。ちょっと要点を見てごらん。その要点とは、彼にはある種のマインド(心理的傾向)、ある種の条件づけがあるということだ。その条件づけのなかでは、決まったタイプの女性だけが彼の心を惹きつける。金髪、あるいはブルーネット・・・、ある種の女性が彼の心を惹きつける。高い鼻、黒い眼、あるいは何かが。かならず彼はある種の女性に引き寄せられる。すると、その女性は同じことをやりはじめる。そうなると彼は当惑する・・・。が、彼は相手を替えたつもりになっていた。

あなたは女性を次から次へと替えているが、自分のマインドを変えたことはない!だからあなたの選択は昔のままだ。選択する本人が古い人だからだ。それではどうしようもない。あなたは同じ罠(わな)にはまる。そして同じ惨めさが生まれる。

グループセラピーは理解の大いなるプロセスだ。「私は自分自身に対して何をしてきたのか!」そしてもし、あなたがさらに深く入ってゆけば・・・。そこまでは、まだいかなるグループセラピーも入ったことがない。原初療法でさえもだ。が、仏陀はさらに深く入っていった。彼は言う。もしあなたがある種の両親を選んだのであれば、それもまたあなたの選択だ、と。

要点を見るがいい。あなたが生まれようとしてさまよっていたとき、何百万もの愚かな人々が愛を交わしていた。だが、それでもあなたはあるカップルを選んだ・・・。なぜか?あなたには特定の観念があるにちがいない。それはあなたの選択だ。それなのにあなたは、「両親が私に悪影響を及ぼした」と言う。

そもそも、あなたはなぜ彼らを選んだのか?そしてあなたの妻、あなたの夫・・・。あなたは彼らが害を及ぼしたと思うのかね?そして社会・・・、誰がこの社会を創りあげたのか?この社会を創りあげたのは「あなた」だ!それはだしぬけに現われるものではない。

路上の乞食は突然降ってわいたわけではない。「私たち」が彼を生みだしたのだ。あなたが裕福になりたければ、誰かが乞食にならねばならない。それなのに、乞食を見ると、あなたはとても気の毒に思う。あなたは誰を騙そうとしているのか?依然としてあなたは裕福になるという考えを抱いている。あなたが裕福になりたければ、誰かが乞食になる。あなたがひとかどの人物になりたければ、そのときには誰かがその評判、名声を得られないことになる。それは競争の世界だ。あなたは戦争を望んではいない。が、あなたは暴力的だ・・・すべての面で、あなたは暴力的だ。それなのにあなたは戦争を非難する。

平和主義者たちと彼らの行進を見たことがあるかね?彼らはなんと暴力的に見えることか!彼らの戦争反対のスローガン、彼らの戦争反対の叫び・・・、遅かれ早かれ、行進は暴動と化す。彼らは車を焼き、オフィスを破壊し、バスや電車に火を放ち、警察を襲撃する・・・。彼らは戦争に抗議しに来ていたのだ!

さあ、どうなっているのだろう?これらの人々は暴力的な人々だ。戦争は口実にすぎない。彼らの抗議は彼らの暴力の表現以外の何ものでもない。彼らは戦争のことなどどうでもいい。彼らはそれを口実として利用している。

社会はあなたによって創られる。そうしておいてあなたは、責任は社会にあると言う。あなた以外の誰にも責任はない。これは認めるのがもっともつらい真実のひとつだ。だが、ひとたびそれを受け容れたら、それは大いなる自由をもたらす。それは広大なスペースを創りだす。なぜならそれと共に、もうひとつの可能性がただちに開くからだ。

「もし責任が私にあるなら、私は変えることができる。もし私に責任がなかったら、変えることはできない。私が自分自身にそれを為しているとしたら、それは痛みはするが、新しい可能性をもたらしてくれる・・・。私は自分自身を傷つけるのをやめることができる。私は惨めであることをやめることができる」

グループのプロセスはあなたを自然にすることではない。それは自分の不自然さ、自分のまやかしをあなたに気づかせることだ。

「セラピーグループの目的は、参加者を自然な自己へと連れてゆくことでしょうか?」

いや、まったく違う。その目的はたんに、その不自然な自己を彼らに気づかせることだ。そうすれば、自然な自己はおのずとやって来る。誰もそれをもたらすことはできない・・・。不自然なものが消え失せると、自然なものが見出される。自然なものはつねにそこにあった、がらくたの下に隠されていた。不自然なものが去れば、あなたは自然だ。あなたは自然になるのではない。あなたはいつも自然だった。どうして人が自然になりえよう?「なること」はすべてあなたを不自然へと導く。

「・・・もしそうだとしたら、自然であろうとする努力は不自然ではありませんか?」

そのとおりだ、自然であろうとする「努力」はつねに不自然だ。しかし、その不自然さを理解することは、自然であろうと努力することではない。それは単純な理解だ。自分が砂から油を絞り取ろうとしてきたことに気づき、その無益さを見抜いたとき、あなたはその企てそのものを落とす。壁を通り抜けようとして頭を傷つけてきたことに気づき、それを見抜いたとき、あなたは壁を通り抜けようとすることをやめる。あなたは扉を探しはじめる。そう、まさにそれに似ている。

「・・・もしそうでないとしたら、自然と不自然の本質的な違いは何ですか?」

自然なものとは、贈り物として・・・全体からの贈り物としてあなたに与えられたものだ。不自然なものとは、さまざまな教え、経典、性格、道徳によってあなたが築きあげたものだ。不自然なものとは、あなたが自然なもの、与えられたものの上に押しつけてきたものだ。自然なものは神から来ている。不自然なものは自分自身から来ている。あなたが自分の上に押しつけたいっさいのものを取り去るがいい。そうすれば、神はあなたの実存のなかで数限りない花をいっせいに咲かせる。

ある人がイエスに尋ねる。「あなたの基本的なメッセージは何ですか?」すると彼は言う。「鶏、魚、花に訊くがいい」「鶏、魚、花に訊くがいい」と言うことで、彼は何を言おうとしているのだろう?彼は、「自然に訊きなさい!」と言っている。

私のメッセージはこうだ。自然があなたを乗っ取ることを許すがいい。どんな性格も創ろうとしてはならない。性格はどれも間違っている。性格をいっさい持たずにいるがいい。いかなる種類の人格も創りだしてはならない。人格はすべて偽りだ。人格であってはならない。

そうすれば、ゆっくりゆっくり、あなたは自己の実存の内奥の中核から何かが生まれてくるのを見るだろう。それが自然だ。その香りはすばらしい。それは善い、けっして悪くない。それは養成されたものではない。まったく違う。それゆえに、そのなかに緊張はない、不安はない。あなたがそれを維持する必要はない。

真理は維持する必要がない。嘘のみが操作され、維持されねばならない。多くの世話と維持が必要だ。が、依然それらは真理ではなく、真理になることは絶対にない。そして真理のみが解放する。

ここで参加できるセラピーは、あなたを自然にするものではない。誰もあなたを自然にはできない。神がすでにそれをやっている。問題は、自然になる方法を学ぶことではない。問題は、身につけた不自然さをいかに捨てるかだ。

OSHO:TAKE IT EASY (日本語版「一休道歌」上巻、めるくまーる社)より



究極の旅より



真実は人を自由にする
ほかの何ものでもない
他のすべては束縛を、重荷を作りだす
そして、<真実>は知的な努力では見つけられない
なぜならば
真実というのはひとつの理論ではないからだ
それは体験だ
それを知るには
あなたはそれを生きなくてはならない
そして
何百万という人たちがおかしなほうへ行くのはそこのところだ

彼らは、もし一つの<信条>にしがみつくことができれば
それが<真実>をみつける役に立つと思っている
だんだんと、かれらはその信条に固まってしまう
そして、信条というのは真実じゃない
それは真実に関する理論でしかない
あたかも
誰かがただの言葉や、経典や
教理や、ドグマで固まってしまうようなものだ
あたかも、盲人が光は存在すると信じはじめたようなもの

あるいは、お腹をすかせた人が料理の本ばかり必死に読んで
こう信じてみたり、ああ信じてみたりしても
ずっと空腹なままでいるようなものだ
空腹はそんなやり方でおさまるものじゃない
真実は食物だ
人はそれを消化しなくてはならない
それを吸収しなくてはならない
人はそれが自分の血液の中へまわり込むこと
自分のハートの中へはいって脈打つことを許さなくてはならない

真実というのは
あなたという有機的統一体の中へ吸収されなくてはならないものなのだ
信条はけっして吸収されはしない
それはひとつの関係外現象にとどまる

~略~

あなたの信条の床下には、その信条が何であろうと
疑いが続いている
むしろ、疑いのほうが中心にあって
信条は周辺部にあると言ったほうがいい
それだから、あなたの人生は基本的に
あなたの信条でなくあなたの疑いによって規定されている
あなたは共産主義者かもしれない
それでも依然として、どこか奥深いところで
疑いは続いている

私はさまざまな信条やセクトに属する
数え切れないほど大勢の人々の内部を見てきたが、
奥深いところで
疑いは同じだ
そして、その疑いだけではヒンドゥー教のものでも
クリスチャンのものでも回教のものでもない
そして、その疑いだけは
共産主義のものでも反共産主義のものでもない
疑いは純粋…

ただただ疑いだ
この純粋な疑いに対しては
あなたは純粋な信頼を必要とするだろう

~略~

真の探究者は
自分自身を慰めるためのどんな信条も求めてはいない
それよりも、彼は彼自身の中にある
疑いを乗り越えるより深い中心(センター)を見出そうとする
これは理解されなくてはならないところだ
あなたは自分自身の実存に深くはいり込んで
疑いなどはるか周辺部に取り残されてしまうような
生命の極点まで行き着かなくてはならないのだ

それをやらないでおいて
人々は信条に
つまり、周辺にしがみつき続ける
そして、疑いは依然奥深い
しかし、事態はちょうどその反対でなければいけない

より深くあなたの実存へはいって行きなさい
疑いに頭を悩ませることはない
それを迂回してしまうのだ
それはそのままそこに置いておきなさい!
信条の陰に隠れようとしないこと
弱虫の駝鳥になっちゃ駄目だ
疑いに直面しなさい!

そしてそれを乗り越えるのだ
疑いよりもっと深く行ってごらん
あなたの実存の中で、ある瞬間が来る…
なぜならは、最も深い核心には
まさに中心(センター)そのものには
生命だけしかないからだ
ひとたび自分自身の内にある深い核心に触れたなら

疑いなどただはるかかなたの周辺的なものにすぎない
それはごく簡単に落とされ得る

そして、それを落とすのに
何かの信条にしがみつく必要などひとつもない
あなたはただただその馬鹿馬鹿しさを見てしまう
ただ疑いというものが、
あなたの生全体にとっていかに破壊的であったか
疑いがあなたの実存をいかに絶え間なく蝕んできたか
それがいかに有毒であったかを見てしまうのだ

それが有毒であって
あなたが祝うのを許さず
大きな機会がのがされ続けてきたという事実を見るだけで
あなたはただただそれを落とす
疑いの代わりにある信条にしがみつくというのじゃない

本当の”信頼の人”には何の信条もない
彼はただただ信頼する
それは彼が
生がいかにビューティフルであるかを知るに至ったから
そして彼が、生がいかに永遠であり
いかに時を超えたものであるかを知るに至ったからだ

かれはすぐ自分自身の内に
神の王国があることを知るに至った
彼は王様になったのだ
それも、ありきたりの意味でいう王様じゃない
なぜならば
外から来る王国などニセの王国
夢の王国にすぎないからだ

~略~
本当の王国は内にある
そして、最も驚くべき事実はこういうことだ
あなたがそれを自分自身の内に
まったく気づかずに持ち運び続けている事
自分が何という宝をもっているのか
何という宝がただあなたの公表を待つばかりになTぅているのかも
知らずに持ち運び続けている事だ



和尚の講和



第六句

”牛に乗ってゆっくりと私はわが家に向かって帰る”

もしあなたが主人でないとしたら
そのときには、あなたは遠ざかる
その(わが家)からはるかに遠く……
もしあなたが主人だったら
あなたは(本来の源)に向かって帰ってきはじめる
もしあなたが主人でなかったら
そのときには、あなたのエネルギーは
あなたから離れる動きをする
物や人や
力や地位や名声に向かって……

エネルギーは
(周辺)に向かって、どんどんとあなたから離れ続ける
ひとたびあなたが主人になったなら
そのエネルギーは(わが家)へ向かって動き出す

~略~

もしあなたが主人だったら
(心)は影のようにあなたに従う
もしあなたが主人じゃなかったら
あなたのほうが影のように(心)に従わなくてはならない
そして、(心)というのは外向きのエネルギーという意味であり
(瞑想)というのは内向きのエネルギーという意味だ
同じエネルギー……
ただ向きが違うだけなのだ

”牛に乗って
ゆっくりと私はわが家に向かって帰る
私の横笛の音は
夜のしじまに響き渡る”
そして、これを覚えておきなさい
もしあなたの探索が
あなたをより一層至福に満ちた状態
あなたが歌い、踊れるそうした状態へ導いていないとしたら
そのときには、何かがおかしい
そのときには、何かが絶対的に間違っている

そのときには
あなたの何か間違った道の上にいるのだ
あなたの至福
あなたの歌や踊りがその指針だ
それは外向き的である必要はない
あなたは他人に聞こえるように歌う必要はない

だが、あなたは自分自身の内に
絶えることなく”うた”があるのを聞くだろう
もしそうしたかったら
あなたは実際に歌い分かち合ってもいい
だが、あなたの内側にはひとつのダンスがあることだろう
(わが家)に近づいてくれば来るほど
あなたはそれだけ幸福に感じる

幸福というのは
(わが家)に向かって戻っていくエネルギーの質そのものなのだ



和尚の講和



”迷いを通して、人は何もかも不真実にしてしまう。迷いは客観性によってひき起こされるものではない。それは主観性の結果だ。”
それをひき起こしているのは世界じゃない
それをひき起こしているのはあなただ
だから、けっして世界のほうを責めたりしないこと
人々がそうしがちであるように
「世界ははかないものだ
世界はマーヤだ」などと言わないこと

世界はマーヤじゃない
世界ははかないものでもない
マーヤを、幻覚を
あなたのまわり中につくりだし続けているのはあなたの(心)だ
あなた自身の主観性なのだ

たとえば
あなたが歩いているとする
朝の散歩に行ったとしよう
すると、道端にあなたはダイヤモンドを見つける
きれいなダイヤモンドだ
輝いている
それはあなたには価値がある
その価値はあなたの心によって与えられるものだ

そうでなければ
それはほかのどんな石とも変わらない一個の石にすぎない
もし道端のほかの石に聞いてみれば
彼らはただただあなたを笑うだろう
「確かに光る石かもしれないよ
でも、それがどうだっていうの?
石は石でしょう」
もしひとりの人間もその道を通ることがなければ
そこにはひとつのダイヤモンドもない

ひとたび人間がその道を通るや
たちまちにして、ある特定の石がその人の心で変身し
そして、ダイヤモンドになる
その”ダイヤンモンド性”は
(心)によってその石にあたえられたものにすぎない



和尚の講和



いまのままのあなたでは
(真実)を見つけることはできない
いまのままのあなたでは
不真実しか見つけられない
なぜならば
それは探し求めたり探索したりという問題じゃないからだ
それはあなたの(意識)という問題なのだ
もしあなたが不真実だったら
どうしてそのあなたに(真実)が見つかる?

ひとたびあなたが真実になれば
あなたは(真実)を見出す
(真実)というのは
自分自身、真に真実になった人たちに起こるものだ
もしあなたが偽りだったら
あなたはどこへ行っても偽りとしか出合うまい

なぜならば、実際のところ
それは客観の世界という問題じゃないからだ
それはあなた自身の主観性の問題なのだ
あなたがあなたの世界をつくる
あなたがあなたの世界なのだ

だから、もしあなたが間違っていたら
あなたは自分のまわりに間違った世界をつくる
もしあなたが偽りだったら
そのときには、あなたは自分のまわりに嘘の世界をつくる
あなたは自分自身の世界を投影するだけなのだ

だから、世界に腹を立てないこと
あなたがどんな世界をお持ちだとしても
それはあなたが自分で身につけたのだ
あなたはそれだけの値打ちしかないのだ!
世界というのは
あなた自身の心の拡大されたもの以外の何ものでもない

”ひとつの思いが起こると、また別な思いが続く、最初の思いが
悟りから湧きいづる時、ひき続くすべての思いは真実だ”

~略~



西洋では
そして、とくに現代の心にとっては
ーーーもう東洋であるか西洋であるかにかかわらず
やること(doing)がどんどん重要になってしまった
そして、やることがどんどん重要になれば
あなたは自分の実存(being)との一切の接触を失ってしまう
生命の源との一切の接触を失ってしまう
そうしておいて、あなたは

最も本質的なる事以外、千と一つのさまざまなことをやり続ける
最も本質的なのは自分自身を知ることだ
そして、あなたの意識全体を
やること(doing)から在ること(being)へシフトしない限り
あなたは自分自身を知ることなどできるものじゃない

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菩提 サーシャ

1984年以来ヨガ指導に始まり眠れる潜在力クンダリーニが覚醒し神秘の次元を知りました。

心と体、精神、ヒーリング・波動調整・サトルボディヒーリング(チャクラオーラ調整)・エッセンシャルライフコンサルティングなど幅広くセッションを行っております。トラウマや葛藤の解消・自信を取り戻す・自己確立・自己実現のために根本の原因を知り本当に望む人生を引き寄せます。過去世リーディングも致します。

スカイプ又は電話セッションの遠隔気功の最終受付は、夜中の0時までOK!横浜市戸塚区でサロンをやっております。なんでもご相談ください。

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