和尚(バグワン・シュリ・ラジニーシ)

1931年インド・クチワダ生まれ、21歳にして光明を得る(悟りを開く)。1958年から1966年まで哲学教授を務めた後、精神的導師として活動に専念。1974年にプーナにアシュラム(道場)を設立する。古今東西の瞑想法、最新の心理療法を駆使して、人々を覚醒へと導く。1981年から85年までアメリカに本拠を移し活動。ワールドツアーののち、1987年にインドに戻る。1990年1月プーナの和尚コミューンで肉体を離れる。その講和は650冊以上、哲学、仏教、禅、ヨーガ、神秘主義思想など多岐にわたる。世界40カ国以上で翻訳、出版され好評を得ている。

クンダリーニ 和尚「瞑想 祝祭のアートより」生命力の目覚め

理論的な知識が役に立ったことはないし、クンダリーニをどんなに解剖学的に視覚化してみたところで、実際のところ瞑想にとっては全然意味のないことだ。とはいっても、クンダリーニチャクラのようなものは存在しない、ということではない。
クンダリーニは在る。チャクラも在る。ただし知識はいささかも役に立たない。むしろ知識はじゃまになることがある。それは多くの理由から障害物(バリヤー)になりうる。

その理由のひとつはこうだ。つまり、クンダリーニや生命エネルギーの神秘的な道ーー生命の飛躍の内なる道ーーについての知識はいずれも一般化されたものだ。だが、そういうものには個人差があり、その根元はかならずしも同じではない。Aさんにとってはそれは異なり、Bさんでも異なり、Cさんでもまた違ってくるだろう。内なる生命には個性がある。だから、あなたが理論上の知識を通して何かを身につけようとしてもそれは役に立たない。じゃまになるかもしれないくらだい。なぜなら、知識はあなた自身に関するものではないからーー。それはあなたに関するものではありえない。自分自身について知るのは、あなたが内部に入って行ったときだけだ。

チャクラは存在する。がその数は個人によってそれぞれ違う。あるつひとにはチャクラが7つあるかもしれない。あるひとには9つあるかもしれない。またある人にはもっとたくさんあるかもしれないし、別の人はもっと少ないかもしれない。あれだけ異なった伝統が発達してきた理由だ。仏教徒たちは9つのチャクラについて語り、ヒンドゥー教徒たちは7つのチャクラについて語り、チベット人たちは、4つのチャクラについて語る。そしてそれはみな正しいのだ!

クンダリーニの根元、クンダリーニが通り抜ける通路も各個人によって違う。内部に入れば入るほど、あなたはますます個的になっていく。
たとえば、体のなかでは顔が最も個性的な部分だ。そして顔のなかでは目がさらにもっとも個性的だ。顔というのは体のほかのどの部分よりも生き生きとしている。だからこそ顔は個人差を帯びるのだ。あなたは気づいていないかもしれないが、ある特定の年齢になるとほぼ一生続くような顔つきになりはじめる。とりわけ性的成熟の年齢になるとそうなる。性的成熟以前には顔が色々変化する。が、性的に成熟すると個性が定まり、一定の型ができあがる。そうなったら顔はだいたい同じままになる。眼は顔よりももっと生き生きしている。それはとても個性的でたえず変化している。光明を得ない限り、けっして眼が固定することはない。光明を得るとはもうひとつの成熟なのだ。

性的な成熟にともなって顔が固定する。が、眼が固定してくるようなもうひとつの成熟がある。仏陀の眼にはどんな変化もよぎらない。むろん体は老い、やがて死んでゆくだろう。だが彼の眼には永遠に変わらない。このことが指標のひとつになってきた。誰かが涅槃を成熟したとき、その人がほんとうに成熟したかどうか部外者が判断できる唯一の扉こそ眼だ。

もう眼はけっして変化しない。何かもが変わっても眼は依然として同じままーー眼は内面世界の表現だ。しかし、クンダリーニはそれよりなおいっそう深い。
どんな理論的知識も役には立たない。何か理論上の知識があると、あなたは自分にその知識を押しつけはじめる。あなたはものごとを自分が教わってきたやり方の通りになるように視覚化するようになる。、それはあなたの個人的な状況に対応しないかもしれない。それが多くの混乱のもとだ。チャクラは感じるべきものであって、それに関して知識をもつようなものではない。まず感じなければならない。自分の内部に触手を伸ばさなければならない。知識は、自分のチャクラを、そしてクンダリーニとその通路を感じた時だけ役に立つものだ。さもなければ役に立ちはしない。

~略~

もうひとつーー。クンダリーニチャクラは解剖学や生理学には属さないということ。チャクラクンダリーニは微細身(みさいしん)(霊妙体)スクシュマシャリラのものであって、この現身つまり粗大身(肉体)のものではない。
むろん、そこには対応する部位はある。チャクラは微細身の部分なのだが、生理学や解剖学にはそのチャクラに体操する諸部位がある。あなたが内なるチャクラを感じ取ったときはじめて、あなたはその対応する部位を感じることができる。さもなければ、全身を分解したところでチャクラのようなものは何ひとつ見出されない。粗大身(肉体)にクンダリーニチャクラのようなものがあるーーーそういう俗説や、いわゆる証拠や、「科学的」主張といったものはすべてばかげているし、まるっきり無意味だ。確かに対応する部位はあるが、そういった部位はあなたが本当のチャクラを感じ取ってはじめて感じられるもの。粗大身(肉体)を解剖してみても何ひとつ発見されはしない。そこには何もない。だから問題は解剖学上のものではない。

粗大身(肉体)にクンダリーニチャクラのようなものがあるーーそういう俗説や、いわゆる証拠や「科学的」主張といったものはすべて馬鹿げているし、まるっきり無意味だ。たしかに対応する部位はあるが、そういった部位はあなたが本当のチャクラを感じとってはじめて感じられるもの。粗大身(肉体)を解剖してみても何ひとつ発見されはしない。
そこには何もない。だから問題は解剖学上のものではない。

~略~

クンダリーニはなおいっそう深い。あなたの死よりも深く。あなたの誕生よりも深く、あなたの血よりも深い現象だ。なぜなら、クンダリーニはあなたの第2番目の身体(エーテル体)の循環系だからだ。血液は肉体(生理学上の身体)の循環系、クンダリーニはエーテル体N循環系ーーー。それは徹頭徹尾不随的なものだ。ハタヨガの行者でさえそれを随意的にどうこうしようということはできない。

人は瞑想に入らなければならない。そうすればエネルギーが動きだす。あなたによった為されなければならない部分が瞑想だ。あなたがそのなかに深く入ったら、そのときには内側のエネルギーが上昇しはじめる。そしてあなたはエネルギーの流れの変化を感じる。

~略~

グルが伝えなければならないのこの知識は、つねに極秘にプライベートにグルから弟子へと伝授されてきた。なぜ極秘なのか?極秘ということこそ知識を伝授するための唯一の手段だからだ。弟子はそれについて誰にも話さないように命ぜられる。が、マインド(心)はしゃべりたがる。何かを知ったら、それを秘密にしておくのはとてもむづかしい。それは最もむずかしいことのひとつだ。それは最もむずかしいひとつだ。だが、これが常にグルのやり方、師のやりかただった。
彼らはそれについて話してはいけないという条件のもとにあなたに何かを与える。何故か?この秘密主義は何故なのか?
真理には秘密の必要はない。プライバシーの必要はないと多くの人が言う。が、それは馬鹿げている!真理は非真理よりも内密性を必要とする。なぜなら、誰にでも与えられたらそれは致命的にもなりうるし、危険にもなりうるからだ。それはある特定の個人に与えられたのだ。それはその人だけに与えられるはずのものであって。ほかの誰かのためのものでもない。

~略~

クンダリーニは、それ自体では生命力ではない。むしろ、それは生命力のための特殊な通路、ひとつの道だ。だが、生命力(生命エネルギー)はほかの道を通ることもできる。だから、クンダリーニを通り抜けることは必ずしも必要ない。クンダリーニを通過しなくても(光明)は得られる。が、クンダリーニが最も簡単な道であり、最も短い道なのだ。

生命力(生命エネルギー)がクンダリーニを通り抜ける時は、「梵の座(ブラフマランドラ)」が終着点になる。が。ほかの通路を通るときにはーーーそRの通路は無限にありうるがーーー「梵の座」は終点ではない。したがって、「梵の座」の開花は、生命力がクンダリーニを経た場合のひとつの可能性、潜在的可能性にすぎない。クンダリーニのことにふれさえしないヨーガの流派もたくさんある。その場合には「梵の座」のようなものは存在しない。だが、「梵の座」は最も簡単な通路で、ふつう(光明)を得た人の9割はクンダリーニを通過している。

~略~

クンダリーニはエーテル体の一部だ。だから、クンダリーニの道であなたが進歩として達成するものは何であれ、肉体とともに死ぬことはない。それはあなたといっしょに進む。達成されたものは何でも、肉体の一部ではないからあなたと共に残る。もしそれが肉体の一部であったとしたら、毎回死ぬたびにそれは失われ、あなたはまたはじめからやりなおさなければならないことになる。だが、誰かが第3番目のチャクラに達したら、その進歩はその人とともに次の生まで残る。その進歩とともに行く。それはエーテル体に蓄えられるのだ。

~略~

生命力がクンダリーニを通り抜ける時には、チャクラは振動し、開花し始める。エネルギーがチャクラに至るが早いか、チャクラは生き生きとしてくる。それはあたかも水力発電が生じるようなものだ。

~略~

性の中枢(ムラダーラ・チャクラ)がまず第1に開くことになる。それは、生物学的な生殖に向かって開くか、霊的精神的な発生に向かって開くか、そのいずれかだ。つまり、ムラダーラ・チャクラには、低次なものと高次なものという2通りの開花がある。クンダリーニの通路のなかでは最も高次の中枢サハスララ・チャクラだ。そして、そのサハスララの中央点にあるのが「梵の座」だ。この「梵の座」が開く事は、自己実現に向かう一つの道だ。

和尚の講和

生命エネルギーが
下方に向かって流れれば、
すなわち、 何の障害もなく
外界に向かって流れ出せば、
アニマがアニムスに打ち勝ち、
黄金の華は開かない。

エネルギーが下へ、
すなわち外に向かって流れると、
再び同じものを生みだす力、
生殖力になる。

それは大いなる現象だ!

あなたはそのようにして生まれた。
誰もが――
仏陀やイエスやクリシュナのような人たちも
みなそのようにして生まれた。

エネルギーが下に向かって流れると、
それは新しい人間を、
神が宿る新しい形をつくりだす。

だが、黄金の華は開かない。

あなたは別の人間――
子ども、すばらしい子どもをつくりだす。

生は続き、
生は流転を続け、
どこまでも流れ続けるが、
それでは
黄金の華は開花することができない。

黄金の華は
どのようにして花開くのだろう?

生命エネルギーが
逆流のプロセスによって導かれたら、
すなわち蓄えられ、
散らされずに上昇させられたなら、
アニムスが勝利をおさめている。

可能性は二つある。

下に向かって
流れるエネルギーは
性欲になり、
上に向かって
流れるエネルギーは
霊性になる。

下に向かって
流れるエネルギーは
生殖力になり、
上に向かって
流れるエネルギーは
創造力になる。

下に向かって
流れるエネルギーは
新しい生命を生みだし、
上に向かって流れるエネルギーは
あなたを再誕生させる。

イエスが
再び生まれ変わらないかぎり」――
父や母からではなく、
みずから上昇する働きによって
生まれないかぎり、
ドウィジャ、
「”二度生まれし者”とならないかぎり――
「私の神の王国に入ることはできない」
と言うとき、
私が言おうとしているのはそのことだ。

黄金の華は、
あなたの実存の最高の頂で待ち受けている。

ヨーガの見取り図では、
それは「サハスラーラ」――
一千枚の花弁をもつ蓮華 ――
と呼ばれている。
それは第七番目のチャクラであり、
頭のなかにある。

最も低いのは
性のチャクラ、ムラダーラであり、
最も高いのは
第七のチャクラ、サハスラーラだ。

エネルギーが
いちばん低いチャクラから下降すると、
新しい生命が生まれる。

エネルギーが蓄えられ、
上昇させられると、
いつかそれはサハスラーラに達し、
そして黄金の華が花開く。

もちろん、
それにはエネルギーが必要だ。

それはひとつの可能性として、
潜在力として、
そこに潜んでいるにすぎない。

エネルギーが供給されないかぎり、
それは開花することができない。

それは樹に水をやらないのと同じだ。
樹は待ち望んでいるのに、
水をもらえない。
樹液は上に向かって流れてゆかない。

どうして数限りない花を
咲かせることができるだろう?
できるはずがない。

樹は苦しみ続け、
ほとんど枯れそうになっている。
樹はゆっくりと死んでゆくだろう。

葉も一枚ずつしおれてゆき、
やがて枝が枯れてゆき、
最後には根が死んでゆく。

樹には絶えず上に向かって
流れてゆくエネルギーが必要だ。

樹液は樹のなかを巡るが、
人間もまた
樹になぞらえることができる。
そして
人間を樹になぞらえる
私の比喩は新しいものではない。

それは最古の象徴のひとつだ。
それはユダヤ教の
神秘的な流派スクールのなかで用いられてきた。
それは「生命の樹」と呼ばれる。

仏教が禅においてその頂点を極め、
イスラム教がスーフィ―において
その絶頂に達したように、
ユダヤ教はカバラにおいて
その究極の頂に到達した。

カバラは
「人間は樹であり、
花を咲かせるためには膨大なエネルギーが必要だ」
と言う。

だが、
エネルギーを蓄えるということは、
エネルギーを抑えることではない
ということを覚えておきなさい。

多くの人々がここで道を誤ってしまう。

エネルギーを蓄えることは、
エネルギーを抑えることではない。
そのプロセスはまったく違う。

抑圧するということは、
最も低いセンターを絶えず
抑えつけているということだ。

最も低いセンターを抑圧し過ぎると、
性の倒錯が起こる。

それが自然に解放されるのを許さず、
いちばん低いセンターに
エネルギーが溜まり過ぎると、
それはなんらかの
はけ口を見いだして
性的な倒錯を引き起こす恐れがある。
それは必ず倒錯を引き起こす!

それは病気をつくりだす。

精神科医、心理学者、
精神分析家に尋ねてみるといい。
彼らは
心理的な病が100例あるなら、
そのうちの95パーセントは
セックスに起因している。
どこかでセックスが関連している」
と言うだろう。

95パーセントというのはかなりの数だ。
そして
精神科医や精神分析家のもとを
一度も尋ねたことがない人たちも
けっしてましな立場にいるわけではない。

誰もが抑圧されている。

抑圧は変容ではない。

このことを
はっきりと理解しておきなさい!

抑圧が変容に通じることは絶対にありえない。

Osho – The Secrets Of Secrets