私のクンダリーニ体験
あれはヨガのインストラクターとして当時の師と共にYMCA他朝・昼・夜と1日3タイムのクラスをほぼこなし、金曜日の夜は、一般者向けのクラスが終わった後、指導者養成があり、後輩の指導者を育成するそんなスケジュールの毎日でした。
その後数年がたち、指導者養成でもなかなか本格的な呼吸法や瞑想法をやらないもどかしさから…その事を師に話すと…「自分1人でやれ~他の指導者たちは、そのレベルでないわいね…」と言われてしまったのです。
世界的に有名なBKS.アイアンガー氏も「自分を導いてくれる師はいなかった…」と言ったそうです。誰もが自分が自分を導くマスターであり、すべてが師マスターだったのでしょう。
結局自分で実践する以外ない…「どうしても…ヨガ行法がやりたい…」と深い思いから水行と簡単な読経もほぼ毎日してました。
ヤントラ瞑想や断食、滝行、座禅などふとやりたい…そう感じたことは、そく実践しました。
ヨガアサナもかなり高度なポーズをやりこみ、自宅に帰ってからはプラナーヤーマ(ヨガ呼吸法)がやりたくなり、時には夜中から朝方近くまで続けていた…そんな日々でした。
決して苦行ではなく、様々な肉体の身体能力や呼吸法により多くの事がわかってきた事…実践が無言の教えであり様々な智慧の開発であることを知り、その興味深さに魅かれていたのかもしれません。
特にパワーセンター(マニピュラチャクラ)をかなり鍛えたこともあって、その準備が整ったのでしょう。
その前ぶれは、90年あたりからあったと思います。90年~91年にかけ起こった体験でした。ちょうど呼吸法と瞑想をしていた時、私の体を包む周囲1メーター以上の空気が勝手に起こったバンダと共にすべての空気を飲み込むほどの強烈さで体内に取り込まれました。
の感じでは、その周りが一時的に真空になったかのように感じられたほど、そのパワーを取り込みながら尾骶骨に眠っていた潜在力クンダリーニが生きているもののように爆発的に背骨を上昇し始めたのです。
それは、まるで原子力に匹敵するほどの強烈さを持っていました。
プラナーがエネルギー源として取り込まれ更に生き生きとした力が爆発的な推進力を生みだし、更に背骨を這うように上昇し始めたのです。
体は勝手にウッディヤーナバンダ含む3つのバンダが自然に起こり、更にケチャリムドラーも勝手に起こってきたのです。
舌が喉の奥に丸まるように吸いつき、息が勝手に止まってしまいこのままでいたら息ができない…大丈夫だろうか?
思ったほどそれは苦しいものではなく、しばらく見守っていると体内にため込まれたプラナーの驚異的な力が現れたのです。
すべてのパワーが総動員されたような感じでした。
尾骶骨に眠れるクンダリーニが爆発するような推進力で上昇し始めたのです。本当に生きているヘビのようにスシュムナー軌道を駆け上り始めたのです。
すでに、第3チャクラのマニピュラチャクラまでは活性化されていたようで、なんなくそこを通り抜けました。
マニピュラチャクラは、完全な活性化のためか?肉体的な内臓の感覚がまったくなく、お腹はまるで透明になったかのように透けて見えるようでした。
あえてためしに何かを食べてみると、食物の塊がただのエネルギーとして、透明になったような内臓全体に四方八方にエネルギーだけが、ただシュルシュル~と下方へ流れていくのが見えました。
肉体としての内臓は、完全になく空っぽという不思議な体験が起こりました。
やがて自然にヒーリング能力が目覚めたこともあり、数日後のヨガクラスでは、レッスンの後に体調がよくない生徒さんを相手に自己流でヒーリングを始めていました。
その当時はヒーリングということはまだ知られておらず、手を当てる癒しを行い始めてました。
毎日上昇と変化をもたらすこのクンダリーニはやむこともなく、更にクンダリーニのパワーはどんどんと上へ上へと押し上げてきて、やがてアナハタチャクラ(ハートセンター)に届くと、アナハタチャクラは、回転しながらまるで大きな華が開いていくように動いて見えました。
その動きと連動して同時にアジナチャクラも連動して回転し始めていました。
すると感情にも影響があり、ハートが大きく開いていくと誰かれとなく大きな愛で人を包んであげたい…という博愛…それも人類愛に近い愛を体験したのです。
それはずっと続き、やがて喜びや美しいと感じる感情が消えていくのでした。
たまたま外出先で移動する電車に乗っていた折、美しい女性を見て感情がどうなっているのか?試したところ、美しいと思える感情もなく、ためしに自分を罵倒してみても…傷つく心も消え失せて、喜びもなく悲しみさえもない、そんな感情も消えていく半面…まるでヒマラヤに1人いるような至福の境地が訪れました。
心の中では…
これがBKS アイアンガーに書かれていた「魂の詩」の事であったと知りました。
喜びもなければ…
悲しみもない…
自由自在な境地…
ハートセンターのチャクラはずっと回転しつづけ、アジナチャクラが開き始めていました。
アジナチャクラがくるくると回転しながら、開かれたと思うとその瞬間に、3つの過去生のヴィジョンとして現れました。
今の生の1つ前は真っ白い長いひげをした老人(聖者のような姿で)遠くに広がる砂漠の中…向こうはチベットのカイラス山が見え、私はチベットとインドの国境あたりに座っていました。
誰も人はいなく…たった1人…私はそこで瞑想三昧に耽っている姿がヴィジョンとして現れました。
その時自分が今世で何故か10代より「悟り」に興味を持ったのか?理由がわかったように感じました。
思い返すと3才の幼少期、風邪を引くといつも同じ夢の中で、目の前に現れる宇宙に溶け込んでみよう…そして自分が解け込んでしまい何もない感覚を味わってもいたのでした。
話しを戻しますと…
その当時、北鎌倉にヨガ指導のため夕方車で向かう最中…ちょうど大船当たり列車の踏み切りで遮断機が降りていました。
英語のテープを車の中で聴いてましたが、遮断機のある信号の点滅が面白く意識を集中していると、アジナチャクラから強烈なエネルギーが出て、かけていた英語のテープがいきなりビューン~!と早送りに巻き取られ、さすがに自分が怖くなったことを覚えいています。
こんなことがあるのだろうか?
ヨガレッスン後帰宅し、夜TVをつけて先ほどのようにアジナチャクラに意識を向けてみると、そこから出たエネルギーにTVが反応をしたのでした。
外を歩けば耳が大きなダンボの耳になったようになり、また、内なるヴィジョンが開かれ様々なものが見えました。また10数メーター先で歩きタバコをしている人のタバコのにおいが、まるで隣で吸われているようにツンと嫌なにおいに感じました。超感覚が開かれていったのです。
更にクンダリーニのエネルギーが上昇しつづけて、頭頂の中央直径2センチ近くがだんだんと硬く隆起し始め、内側からは勝手に「オームー シャンティ~ シャンティ シャンティ オ~ オ~
オ~~~ム~~~~」とマントラが起こるとともに更にエネルギーが上昇していきました。内なるヴィジョンはヒマラヤの美しい山並みの中にいるそんな境地が続き、その美しい山の情景を見せてくれてました。
様々な超能力と共に究極の至福を味わいながらも…このままいったら頭蓋骨の中央直径2cm近くが丸く硬く隆起し始め、容赦なく下から押し上げてくる強烈なエネルギーに…どうなるのだろう?
もしかすると頭蓋骨中央の隆起部分に穴が開くかもしれない?という不安…このままでは危ないかもしれない!
そして、肉体の感覚を取り戻すためにお腹もすいてないのに、無理やり多く食べて体の感覚を取り戻し、またエネルギー調整とクンダリーニヨガのバランス調整の瞑想法でこの抑える事のできない、超常的な現象にバランスを取り戻したのです。
そのような事があッて以来、肉体は完全に作りかえられたようでした。背骨はほぼまっすぐとなり、また肉体を取り囲むオーラ全体は、常にビリビリした感じで、体全体は気の体になったようでした。
この体験からエネルギーとチャクラの関連、連動性や音、そしてマントラであるオームの意味する事に理解が起こりました。
その後5~6年後、鎌倉の駅から徒歩10分の所に引っ越したのですが、海まで歩いて30分以上かかる場所にいましたが、口の中が海の塩の味でしょっぱい感じにもなりました。ヨガから五感を超えた超感覚が開かれたのは事実です。その後も様々な神秘体験は日常的で普段感じるレベル以上に超感覚の世界を知りました。
人間の埋もれた可能性のすごさ、眠れる潜在力が誰にも備わっている…身をもってそれを知り「肉体をもって生まれた事のありがたさ…人間にすごさと素晴らしさを実感しています。
★かつて過去クンダリーニが覚醒し記憶の断片をたどりながら書きましたが、体内で起こった様々な神秘は、エネルギー調整するまで長く続きました。
また、チャクラは7つと言われますが、活性化したチャクラは回転するような現象が見られない場合、チャクラの数を4つとする説もあるのだと思います。
★クンダリーニ上昇は、特殊な体験ですので時には危険を伴います。
経験のある指導者について基礎からきちんと学ぶことが必要です。
結果を急いでも意味がなく…ただひたすら実践あるのみ…です。
★チャクラはこのように強烈なクンダリーニの体験がなくても、音や色(オーラソーマ)との関連や波動から様々なアプローチで探究することは可能です。チャクラはあなたが生きるエネルギー身体、サトルボディです。
★ここにあえて神秘体験の1部を書きましたのは、皆さん方が自分を知り実践を通して、内なる世界に無限の可能性があるということを知っていただきたい…と書いた次第です。
ただし大切なことは意識の成長と進化です。
★瞑想は最初で最後の自由をもたらす道です。どのような神秘体験が起ころうとも、超能力が開発されようとも、それとも同一化せず「気づき」意識が目覚めている事。意識の目覚めが成長をもたらすのです。
★巷では、タントラヨガとも言われその場合は、他に誰かパートナーを必要としています。このクンダリーン体験は、1人で徹底したヨガ行を行い、また和尚のダイナミック瞑想の浄化も助けになったのではないでしょうか?覚醒には、1人で十分やれるのです。
あなたの熱心さと実践さえあれば…
覚者は言います。
私とは?…純粋意識、存在、空、虚空、ただある、など言葉で現す事の出来ない次元を表現していますが、私たちは瞑想により自分の自己実現と苦悩からの解放~★そしてとらわれた思考や感情から至福と祝祭の人生を生きる。それは自分が変容する道であり、あなたが求めればそして実践すればその道は開かれるのです。
恩寵は準備が整う事でやがて起こります。必要なことをすべてやってみるのです。
気づき「アウェアネス」Bodhi
Much Love
参考文献
絶版本 クンダリーニとは何か ジョン・W・ホワイトジョン
奇跡の探究Ⅱ 7身体の神秘 和尚
気をつける事は、一度強烈に上昇し始めたクンダリーニは決して自分の力ではコントロール出来ません。
だからこそ体の柔軟性と呼吸法、心身の浄化法…そしてバランスをとる瞑想法により、来るべきクンダリーニ開花のために準備をするのです。
それはとても大切な事です。
エネルギーバランスをくずすようであれば、クンダリーニヨガによるエネルギー調整と瞑想法で安全な方法で対処が出来ます。
体が柔軟でないと…その強烈なクンダリーニのパワーにより、体がころがりまわったりもします。
それにより、腰を痛めたり、肉体に損傷をも起こしかねません。
よって柔軟で浄化された心と体、そして強い精神力や忍耐力をアサナで養うことは基本的にとても大切です。
また気道をクリアーにしておくこと、メンタル面でも心の浄化が必要となります。
クンダリーニ上昇とともに、花が開くようにチャクラが回転し、その推進力で上へ上へと上昇していく。
そのチャクラはツボではなく、また、生理学的な胸腺とか、脳下垂体などのホルモン分泌される場所ではありません。
これらは、肉体の次に現れてくる微細なエネルギー身体(サトルボディ)です。
各チャクラが大きく開かれる事で、人智を超えた様々な超能力も開発されます。ただし超能力には、必要以上にこだわらない姿勢は大切です。
※すべては、準備するための身体と精神を作る事。なので…準備が整わなければ、単に聖なる音「オーム」を唱えても、ただ形だけで終わる事でしょう。
※実践しかヨガの道はありません。内的な内なる智慧は実践から生まれます。
※究極の境地・至福 悟りの道は クンダリーニにこだわる必要はありません。
※くれぐれも能力開発をしようなど思わないことです。それらは付随的に現れる1つの現象です。
クンダリーニ上昇でエネルギーバランスをくずしやすくなるため、その場合は個別のエネルギー調整と瞑想法を指導いたしますのでご相談ください。
参考文献 チャクラとは C.W リード・ピーター
参考文献 クンダリーニとは何か ジョン・W・ホワイト
参考文献 ハタヨガの真髄 BKS.アイアンガー
参考文献 密教ヨーガ 本山博
参考文献 瞑想 祝祭の芸術 バグワン・シュリ・ラジニーシ
和尚の講和より
Osho(バグワン・シュリ・ラジニーシ)1931年インド・クチワダ生まれ。21歳にして光明を得る。
(悟りを開く)1958年から1966年まで哲学教授を務めたのち、精神的導師として活動に専念する。
1974年にプーナにアシュラム(瞑想探究道場)を設立すると、古今東西の瞑想法、最新の心理療法などを自在に駆使し、人々を覚醒へと導く。毎日の講和では、タントラ密教、老荘思想、禅、ヨガなどを題材に取り上げ、既成の宗教、政治などの因習を辛辣に批判しつつ、光明への道を平易に語る。1981年~85年までアメリカに本拠を移し活動。ワールド・ツアーの後、1987年にインドに戻る。1990年1月プーナの和尚コミューンで肉体を離れる。
クンダリーニ 和尚「瞑想 祝祭のアートより」生命力の目覚め
理論的な知識が役に立ったことはないし、クンダリーニをどんなに解剖学的に視覚化してみたところで、実際のところ瞑想にとっては全然意味のないことだ。とはいっても、クンダリーニやチャクラのようなものは存在しない、ということではない。
クンダリーニは在る。チャクラも在る。ただし知識はいささかも役に立たない。むしろ知識はじゃまになることがある。それは多くの理由から障害物(バリヤー)になりうる。
その理由のひとつはこうだ。つまり、クンダリーニや生命エネルギーの神秘的な道ーー生命の飛躍の内なる道ーーについての知識はいずれも一般化されたものだ。だが、そういうものには個人差があり、その根元はかならずしも同じではない。
Aさんにとってはそれは異なり、Bさんでも異なり、Cさんでもまた違ってくるだろう。内なる生命には個性がある。だから、あなたが理論上の知識を通して何かを身につけようとしてもそれは役に立たない。じゃまになるかもしれないくらだい。
なぜなら、知識はあなた自身に関するものではないからーー。それはあなたに関するものではありえない。自分自身について知るのは、あなたが内部に入って行ったときだけだ。
チャクラは存在する。がその数は個人によってそれぞれ違う。あるつひとにはチャクラが7つあるかもしれない。
あるひとには9つあるかもしれない。またある人にはもっとたくさんあるかもしれないし、別の人はもっと少ないかもしれない。あれだけ異なった伝統が発達してきた理由だ。仏教徒たちは9つのチャクラについて語り、ヒンドゥー教徒たちは7つのチャクラについて語り、チベット人たちは、4つのチャクラについて語る。そしてそれはみな正しいのだ!
クンダリーニの根元、クンダリーニが通り抜ける通路も各個人によって違う。内部に入れば入るほど、あなたはますます個的になっていく。
たとえば、体のなかでは顔が最も個性的な部分だ。そして顔のなかでは目がさらにもっとも個性的だ。
顔というのは体のほかのどの部分よりも生き生きとしている。だからこそ顔は個人差を帯びるのだ。あなたは気づいていないかもしれないが、ある特定の年齢になるとほぼ一生続くような顔つきになりはじめる。
とりわけ性的成熟の年齢になるとそうなる。性的成熟以前には顔が色々変化する。
が、性的に成熟すると個性が定まり、一定の型ができあがる。そうなったら顔はだいたい同じままになる。
眼は顔よりももっと生き生きしている。それはとても個性的でたえず変化している。光明を得ない限り、けっして眼が固定することはない。光明を得るとはもうひとつの成熟なのだ。
性的な成熟にともなって顔が固定する。が、眼が固定してくるようなもうひとつの成熟がある。仏陀の眼にはどんな変化もよぎらない。むろん体は老い、やがて死んでゆくだろう。だが彼の眼には永遠に変わらない。このことが指標のひとつになってきた。誰かが涅槃を成熟したとき、その人がほんとうに成熟したかどうか部外者が判断できる唯一の扉こそ眼だ。
もう眼はけっして変化しない。何かもが変わっても眼は依然として同じままーー眼は内面世界の表現だ。しかし、クンダリーニはそれよりなおいっそう深い。
どんな理論的知識も役には立たない。何か理論上の知識があると、あなたは自分にその知識を押しつけはじめる。
あなたはものごとを自分が教わってきたやり方の通りになるように視覚化するようになる。
それはあなたの個人的な状況に対応しないかもしれない。それが多くの混乱のもとだ。
チャクラは感じるべきものであって、それに関して知識をもつようなものではない。まず感じなければならない。
自分の内部に触手を伸ばさなければならない。知識は、自分のチャクラを、そしてクンダリーニとその通路を感じた時だけ役に立つものだ。さもなければ役に立ちはしない。
~略~
もうひとつーー。クンダリーニやチャクラは解剖学や生理学には属さないということ。チャクラとクンダリーニは微細身(みさいしん)(霊妙体)スクシュマシャリラのものであって、この現身つまり粗大身(肉体)のものではない。
むろん、そこには対応する部位はある。チャクラは微細身の部分なのだが、生理学や解剖学にはそのチャクラに体操する諸部位がある。あなたが内なるチャクラを感じ取ったときはじめて、あなたはその対応する部位を感じることができる。
さもなければ、全身を分解したところでチャクラのようなものは何ひとつ見出されない。粗大身(肉体)にクンダリーニやチャクラのようなものがあるーーーそういう俗説や、いわゆる証拠や、「科学的」主張といったものはすべてばかげているし、まるっきり無意味だ。確かに対応する部位はあるが、そういった部位はあなたが本当のチャクラを感じ取ってはじめて感じられるもの。
粗大身(肉体)を解剖してみても何ひとつ発見されはしない。そこには何もない。だから問題は解剖学上のものではない。
粗大身(肉体)にクンダリーニやチャクラのようなものがあるーーそういう俗説や、いわゆる証拠や「科学的」主張といったものはすべて馬鹿げているし、まるっきり無意味だ。たしかに対応する部位はあるが、そういった部位はあなたが本当のチャクラを感じとってはじめて感じられるもの。粗大身(肉体)を解剖してみても何ひとつ発見されはしない。
そこには何もない。だから問題は解剖学上のものではない。
~略~
クンダリーニはなおいっそう深い。あなたの死よりも深く。あなたの誕生よりも深く、あなたの血よりも深い現象だ。なぜなら、クンダリーニはあなたの第2番目の身体(エーテル体)の循環系だからだ。血液は肉体(生理学上の身体)の循環系、クンダリーニはエーテル体N循環系ーーー。それは徹頭徹尾不随的なものだ。ハタヨガの行者でさえそれを随意的にどうこうしようということはできない。
人は瞑想に入らなければならない。そうすればエネルギーが動きだす。あなたによった為されなければならない部分が瞑想だ。あなたがそのなかに深く入ったら、そのときには内側のエネルギーが上昇しはじめる。そしてあなたはエネルギーの流れの変化を感じる。
~略~
グルが伝えなければならないのこの知識は、つねに極秘にプライベートにグルから弟子へと伝授されてきた。なぜ極秘なのか?極秘ということこそ知識を伝授するための唯一の手段だからだ。弟子はそれについて誰にも話さないように命ぜられる。
が、マインド(心)はしゃべりたがる。何かを知ったら、それを秘密にしておくのはとてもむづかしい。それは最もむずかしいことのひとつだ。それは最もむずかしいひとつだ。だが、これが常にグルのやり方、師のやりかただった。
彼らはそれについて話してはいけないという条件のもとにあなたに何かを与える。何故か?この秘密主義は何故なのか?
真理には秘密の必要はない。プライバシーの必要はないと多くの人が言う。が、それは馬鹿げている!真理は非真理よりも内密性を必要とする。なぜなら、誰にでも与えられたらそれは致命的にもなりうるし、危険にもなりうるからだ。それはある特定の個人に与えられたのだ。それはその人だけに与えられるはずのものであって。ほかの誰かのためのものでもない。
~略~
クンダリーニは、それ自体では生命力ではない。むしろ、それは生命力のための特殊な通路、ひとつの道だ。だが、生命力(生命エネルギー)はほかの道を通ることもできる。だから、クンダリーニを通り抜けることは必ずしも必要ない。クンダリーニを通過しなくても(光明)は得られる。が、クンダリーニが最も簡単な道であり、最も短い道なのだ。
生命力(生命エネルギー)がクンダリーニを通り抜ける時は、「梵の座(ブラフマランドラ)」が終着点になる。が。
ほかの通路を通るときにはーーーそRの通路は無限にありうるがーーー「梵の座」は終点ではない。
したがって、「梵の座」の開花は、生命力がクンダリーニを経た場合のひとつの可能性、潜在的可能性にすぎない。
クンダリーニのことにふれさえしないヨーガの流派もたくさんある。その場合には「梵の座」のようなものは存在しない。だが、「梵の座」は最も簡単な通路で、ふつう(光明)を得た人の9割はクンダリーニを通過している。
~略~
クンダリーニはエーテル体の一部だ。だから、クンダリーニの道であなたが進歩として達成するものは何であれ、肉体とともに死ぬことはない。それはあなたといっしょに進む。達成されたものは何でも、肉体の一部ではないからあなたと共に残る。
もしそれが肉体の一部であったとしたら、毎回死ぬたびにそれは失われ、あなたはまたはじめからやりなおさなければならないことになる。だが、誰かが第3番目のチャクラに達したら、その進歩はその人とともに次の生まで残る。その進歩とともに行く。それはエーテル体に蓄えられるのだ。
~略~
生命力がクンダリーニを通り抜ける時には、チャクラは振動し、開花し始める。エネルギーがチャクラに至るが早いか、チャクラは生き生きとしてくる。それはあたかも水力発電が生じるようなものだ。
~略~
性の中枢(ムラダーラ・チャクラ)がまず第1に開くことになる。それは、生物学的な生殖に向かって開くか、霊的精神的な発生に向かって開くか、そのいずれかだ。つまり、ムラダーラ・チャクラには、低次なものと高次なものという2通りの開花がある。クンダリーニの通路のなかでは最も高次の中枢サハスララ・チャクラだ。そして、そのサハスララの中央点にあるのが「梵の座」だ。この「梵の座」が開く事は、自己実現に向かう一つの道だ。