発散から始めなさい 和尚(Osho)の講和より 新瞑想法入門
私は、ただ座ることから始めよ、とはけっして言わない。始めるのが楽なところから始めたらいい。さもなければ、不必要に多くのことを感じだしてしまうーーー
実存しないようなものまでもだ。
座ることから始めれば、内側で多くの妨害を感じる。座ろうとすればするほど、かえってその妨害は募ってくる。気違いじみたマインド以外にはまったく何も見えなくなる。
それは憂鬱を生み出す。欲求不満は感じるが、至福は感じない。それどころか、自分が狂っていると感じ始める。そしてときには、本当に気違いになるかもしれない!「ただ坐る」ために誠実に努力すれば本当に気違いになるかもしれない。
人びとは真剣に試みないため、狂気がそれほど頻繁には起こらないだけだ。誠実に坐り続けようものなら、自分の内部に非常に大きな狂気があり、本当に気違いになるかもしれないということがわかってくる。
それは、すでに何度も起こってきた。だから、私は欲求不満、憂鬱、悲しみを生み出しかねないもの、強烈に自己の狂気に気づかせるようなものは、けっして勧めない。
あなたには、内部の狂気全体を自覚する用意ができていないかもしれない。ある種のものは、ゆっくりと時間をかけて知ることを許されるべきだ。知識が必ずしもよいとは限らない。
それは、吸収する力が成長するにしたがい、ゆっくりと展開してゆくべきだ。
私は、「坐る姿勢」からでなくあなたの「狂気」から始める。私は狂気を承認する。もし狂ったように踊れば、内側では反対のことが起きる。狂ったような踊りによって、自分の内側にある沈黙に気づきはじめる。あるいは沈黙して坐ることで、狂気に気づきはじめる。
反対のものが、つねに気づきのポイントとなる。
狂ったようにめちゃくちゃに踊ること、泣くこと、混沌として呼吸をすることで、私はあなたの狂気を許す。
そのうえで、周辺部の狂気とは対照的に、内側の静寂で不動で微妙な地点、深い地点に気づきはじめる。
あなたは、とても至福に満ちている。中心には内なる静寂がある。