和尚の講和より~

信じる人は、いかなる理解にもたどり着かない。おとなしく受け入れる人は、自分自身の体験を持つことができない。他人が言うのなら光はある、きっとあるに違いないという事実に盲目的にしがみつくなら、旅はまさにそこで終わる。旅が続くのは、あなたの焦燥感がやむことなく続き、決して消え去らないときだけだ。

焦燥感が生まれるのは、人びとの語るものがそこにありながら、自分にはそれが見えず、受け入れられないときだけだ。
あなたは、それを見てはじめて受け入れることができる。マインドには、こういったたぐいの焦燥感ーーー「自分自身の眼でみて、はじめて受け入れよう」というような焦燥感が必要だ。

あなたが信仰を持つのを望んでいる人びとは、自分自身の眼などいらないという人びとだ。マハビーラには眼があった。それで十分だ。仏陀には眼があった。それで充分だ。なぜ1人1人が眼を持つ必要があるだろう?

~略~

あなたの仕事は、ただ信じることだ。知識は到達されている。あなたが自分で知る必要などない。

この教えが人を盲目にしてきた。地球上の人びとのほとんどは、盲目のままだった。そして今日も依然として、ほとんどの人が盲目だ。そして現在の状況を見ると、おそらく将来もほとんどの人が盲目のままだろう。なぜなら、盲目を治す基本的な錬金術ーーーすなわち盲目であることを克服する渇きが、損なわれてしまったからだ。厳しい信仰体系を与えることによって、それは滅ぼされてしまった。

~略~

だから、自分自身の理解を探求することだ。他人の洞察をあがめても、何も到達できない。実のところ、自分自身の理解の探求が始まるのは、他人の考えを捨てたときだ。外側に何か代用品があるかぎり、外側から何かがあたえられているかぎり、探求は始まらない。あなたの内側に挑戦が芽生えるーーー自分自身の道、自分自身の理解を探求しようとする挑戦が、

~略~

人生は、奮闘と苦闘によって変わるものだ。それに直面し、それを変えようと努力することによって、人生は変わる。人生は、目を閉じてマントラを詠唱すれば変わるものではない。

瞑想とは、あなたの内側深くにある意識を目覚めさせる手段だ。意識を眠らせる手段ではない。あなたの内側深くに隠れているものが目覚めて、気づきがみなぎるーーー内側で眠ったままでいるものが、何ひとつないほどに。

あなたの実存全体が目覚める。瞑想とは、そうした気づきの境地の呼び名だ。